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腕神経叢損傷

2014年2月15日 (土)

地裁と高裁で評価の分かれた右腕神経叢損傷(24.7.26)

1 仙台高裁平成24年7月26日判決(自保ジャーナル188124頁)

 (1審:福島地裁いわき支部平成23年11月24日判決)

  この事案の特徴は、①腕神経叢損傷の事案であること、②両側に症状が出ていて片側のみが診断されたと思われること、③筋萎縮必須論が出されていること、④筋電図検査を否定する意見が出されていること、⑤問題のある医学的知見が多く出されていること、⑥胸郭出口症候群の検討がされていないことなどです。

 

2 症状の経過

  被害者は事故時19歳の契約社員(郵便局に採用されてまもなく事故に遭った)です。平成18年5月15日に後退してきた自動車が被害者の乗っていた原付に衝突するという事故に遭います。

 

 事故当日…F病院。救急搬送され頚部痛及び右手のしびれを訴えたため、中心性脊髄損傷が疑われ、11日間入院。事故当日の握力は右が13kgで左が16kgであった。MRIでは右肩に明らかな腱板損傷は認められなかった。

 12日後…B病院。中心性脊髄損傷は否定され、右腕神経叢損傷とされる。後頸部痛、右肩、上肢しびれ、脱力の主訴。頸椎運動制限及び運動時頸部痛、右上肢橈骨側・遠位側優位の知覚障害・運動麻痺が認められる。9か月ほどの通院の間、左右の握力の低下が認められる。

 8か月後…症状固定とされる。これに基づき14級9号との認定を受けた。被害者はその後も通院を続ける。

 

 11か月後…C診療所。右肩痛、右上肢挙上制限を訴える。レントゲン、MRIでは異常なし。頚椎椎間板損傷、右腕神経叢まひ右肩関節周囲炎とされる。

 11か月後…D病院。右肩痛を訴える。握力右5.1kg、左20.6kg。医師は上腕、前腕の周径に左右差がなく、右腕神経叢損傷と合致しないとC病院への書面に記載した。右肩関節唇損傷、右腕神経叢損傷と診断した。

 1年8か月後…C診療所。右腕神経叢まひ右肩腱板疎部損傷とされ、再度症状固定とされる。

 2年7か月後…F病院。筋電図検査で遠位筋ほど多相性の神経原性電位を認めるとして、腕神経叢損傷(全型節後損傷)と診断される。

 2年10か月後…再度後遺障害診断書が作成される。これに基づき12級13号との認定を受けた。

 

3 片側だけ(一部だけ)の診断について

 ⅰ 被害者は事故当日から両手の握力が低下し、その状況が少なくとも1年以上続いています。判決からは両上肢に同じような症状(痛み、しびれ、脱力等)が出ていて、左側よりも右側の症状が強いように見えます。しかし、通院先の診断は終始一貫して右側のみに限定されています。

   私の経験でも被害者が事故直後から両側の症状を訴えていたにもかかわらず、片側だけが診断されていた事案が数件あります。もちろん両側に症状が出ていると診断された事例の方が多いのですが、症状の重い側だけを取り出して診断する医師も少なくないようです。

   片側だけを診断をした医師は、「事故により神経に損傷が生じたとすれば、両方同時ではなく一方のみのはずだ。従って、症状の弱い側は反射的な症状が出ているだけである。」との見方により、片側の症状だけを取り出して診断したとも考えられます。

   これと似たような話で、上肢に強い痛みを訴えている場合に、相対的に弱い痛みや違和感を訴えている腰や下肢の症状が無視されていた事案も数件経験したことがあります。

事故に遭われた方の多くは事故直後には頚部や腰部だけではなく全身に痛みが出ていたと言われますが、多くの場合カルテには一番強く訴えた症状だけが記載され、その後のカルテはその症状を重視した記載になる傾向があります。

 

ⅱ 胸郭出口症候群や手根管症候群のように事故の場合にも両側に症状が出ることが多い疾患もあるので、両側に症状が出た場合には両側について診断した方が良いと思います。その方が事実に即しています。

   症状固定のときに突如として両側の診断となると、追加された症状がいつ出てきたのかが問題になります。このような場合では、なぜかカルテの記載が非常に少ないことが多く、問題が複雑になります。

 

ⅲ 本件と類似の事案で、左側にも同様の症状が生じていた場合でも、左側の症状の裏づけが少ない場合には、訴訟戦略の上で左側の症状を主張しないとの判断もありえます。

  即ち、「左側の症状を裏付ける証拠はわずかで、主治医も診断していないのだから裁判所も認めるはずがなく、主張しても逆に不利に働くだけである。」という考えです。事情によっては、この考えに至るのもやむを得ないと思います。

本件ではそのような事情から右側のみが主張されているように見えます。  被害者側は主治医の診断した右腕神経叢傷害により自賠責の認定した12級相当の後遺障害が残存すると主張しています。実際には両上肢に痛み、しびれ、脱力等の症状が出ていて、9級相当の後遺障害が残っているとも思えます。

 

4 被害者の最終的な症状の程度について

 ⅰ 全体的な見方

事案をおおまかに眺めてみると、①被害者は事故により救急搬送され、①中心性脊髄損傷が疑われて11日間入院し、③右上肢の痛み、しびれ、脱力について早期に右腕神経叢損傷と診断をされ、④8か月後にいったん症状固定とされるも症状が改善せず通院を続け、⑤2年7か月後は筋電図検査で腕神経叢損傷が裏付けられたとの経過が存在します。

つまり、事故直後から一貫した症状の訴えがあり、それに対応した治療を受け、症状が続くため通院が長期に及び、精密検査でその診断が裏付けられています。従って、最終的に右上肢に痛み、しびれ、脱力(及び握力の低下)が残っていて、その程度は決して軽くはないことが十分に推測できます。この見方は一般人の常識的な考えにも合うと思います。

このような「全体的な見方」は物事を考える上で軸となるべきものです。細部での問題は随時この思考の軸(全体像)にフィードバックさせて整合性を検討する必要があります。

 

 ⅱ 頭でっかちな見方

訴訟ではこの全体的な見方を軽視して、部分ごとに切り離して検討した結果、全く異なる結論に至ることが多く見られます。これまで検討してきた裁判例のほぼ全部は「全体的な見方」からすれば被害者の主張する症状が最終的に残っていると判断できる事案ですが、細分化した検討の結果、その結論に至っていないものがほとんどです。

毎回のように部分での検討で全体像が否定されてしまうのでは、世間一般からは「裁判官は頭でっかちだ(細かい理屈ばっかりで結果が伴わない)」と言われるかも知れません。要件事実論に証明責任を取り込んで事実認定をしてしまうと、この傾向に陥りやすくなります。

 

 ⅲ 部分での検討で行なうべき判断

   被害者の症状を否定した裁判例では、部分ごとに切り離した検討で部分ごとに越えるべき「証明のハードル」が設置され、そのハードルを越えていないとして全体像が否定される形のものが多く見られます。

   細部での検討を厳密に行なうと正しい結論が導かれるようにも思えますが、実際には部分ごとの検討で「何が起きたのか」を検討せずに「証明責任をみたすほどの証拠があるのか」を検討している判決が少なくありません。細部にまで確実な証拠を求めると、事案を細分化すればするほど被害者に不利になります。

もちろん、証明責任の対象は主要事実のみですので、間接事実に証明責任を適用することは誤りですが(私は主要事実であっても事実認定に証明責任を取り込むことは誤りと考えますが)、この誤りに陥っているように見える裁判例を多く見かけます。

部分(間接事実)の検討においては「何が起きたのか」を検討して「~と推測できる」との結論を導くべきですが、「~であると認めるに足りる証拠はない」という法的に誤った書き方をしている判決を少なからず見かけます。「Aであると認めるに足りる証拠はない」との判断は、Aではないことを意味するわけではなく、推論の度合いが示されないため判断が空洞化しています。

部分での検討は最終的に認定する主要事実を導く際の推論の元になるものであるので、獲得した心証をそのまま記載するべきであると思います。証明責任に頼ると判断の空洞化(実質的心証の裏づけのない認定)を導きますが、この点への意識が低い判決を少なからず見かけます。

 

 ⅳ 新様式判決の功罪

   判決には旧様式判決と新様式判決があり、おおざっぱに言えば旧様式判決は当事者の主張を法的に細かく区分して記載したのちに、法的な序列に従って事実を認定していくものです。新様式判決は、当事者の主張の序列化は大まかな把握に留めて、争点の抽出とその判断に力点を置く書き方をするものです。

   旧様式判決では当事者の主張を整理する段階で、事件記録を一通り検討する必要があるため、この段階で事案の概略をつかみ、争点に集中しすぎない全体のバランスの取れた判断になるとも言えます。

   これに対して、新様式判決では事案の概略を述べた後にいきなり争点の検討を始めるため、上記の「全体的な見方」を意識することがないまま細部での判断が全体を決する流れに向かいやすくなります。

   新様式判決で争点に対する検討が厚くなった点は良いと思うのですが、その検討の中身が「証明責任を満たすほどの証拠はあるか」という形で空洞化し、間接事実を証明責任で判断する誤りに陥っていると思われるものが少なくありません。このため、全体像の欠落が目立つものも少なからずあります。

   全体像の欠落というのは、細部での検討で導かれる結論について「仮にAではないとすると、何が考えられるか」を事案の全体像に戻って検討する作業の欠落です。Aではないとした場合の代替案が存在しないにも関わらず、「Aであるとする確実な証拠はない」との思考で、細部の検討のみで結論を確定させることは誤りであると思います。

 

5 裁判に至る過程での選別

 ⅰ この事案では地裁判決は12級と認定し、高裁判決は14級と認定しています。判断が分かれたのは、「この事故によって被害者の主張する後遺障害が生じるであろうか」という点の考え方に大きな影響を受けています(後述の点も影響していますが)。

   事故は停止後に後退した車が被害者の乗っていた原付に衝突して、被害者の乗った原付が転んだというもので、おおまかな外形からは被害者が腕神経叢を損傷するほどの事故であるとは考えにくい状況があります。

 

 ⅱ 地裁判決

地裁判決は「確かに、前示のとおり、本件事故によって生じた原告車両及び被告車両の損傷の程度は軽微であり、本件事故による衝撃の程度がそれほど大きなものではなかったことがうかがわれるものの」(41頁)として、事故の衝撃は大きなものではないとします。

しかし、「事故により傷害が生じるか否かは、衝撃を受ける者の個体差や衝突時の身体的条件、車両及び道路条件等によっても違いが生じ得るものであることからすると、上記各証拠をもって直ちに本件事故により原告に右腕神経叢損傷が発症したことを否定することはできない」とします。

即ち、地裁判決は被害者に腕神経叢損傷が生じる可能性があれば足りるとしています。私もこの考え方を支持します。

 

 ⅲ 高裁判決

高裁判決は、①原付が転倒して被害者がしりもちをついたとの事故状況、②被害者の体に強い衝撃を与えるような衝突ではなかったこと、③被害者の右腕神経叢に牽引力が働く状況ではないことから、被害者の主張する腕神経叢損傷が生じるような事故ではなかったとします(30頁)。

   私も同様の事故に遭った方が100人いた場合に原告と同様の怪我(障害)を生じる方は1人ほどであると思います。しかし、裁判に訴え出るのはまさにその1人です。後遺障害がない人は裁判に至る過程の選別で除外されます。

   なお、地裁判決は上記のほかに、被害者が転倒した際に頭部が傍らのフェンスに衝突したことを認定しています(40頁)が、私はこの事情が不可欠とは考えません。

 

 ⅳ 裁判に至る過程での選別

むち打ち損傷を検討した有名な工学実験では時速10キロ以下の衝突によっても一部の人には頚部痛が生じることが確認されています(『検証むち打ち損傷』)。有志で実験に参加された方で衝撃が来ることが抽象的には予見で来ていた方であってもこの結果なのです。時速10キロで追突された衝撃でも頚部は最大可動域まで屈曲・伸展しますが、衝撃を感知して頚部の筋の収縮が始まるのはその後のことであるので、この結果はある意味当然と言えます。

   例えば、時速15キロで追突された人が100人いるとして、そのうち40人は何らかの首の痛みを訴え、うち10人は首の痛みが持続し、うち2人は頑固な首の痛みになると仮定します。後遺障害があるとして訴訟に訴え出るのは最後の2人です。この「裁判に至る過程での選別」という思考は、およそ裁判官であるならば備えていなければいけません。

   これに対して、訴訟の場において、「その事故で頑固な首の痛みが残る可能性は2%であるから、その被害者の主張する障害が生じた可能性は小さい。」と考えることは誤りです。後遺障害がないのに訴訟に訴え出るという特殊な想定で、原則となる思考を否定することは正しくありません。

 

 ⅴ 他の原因が考えられないこと

   地裁判決が述べるように、事故態様は被害者がその怪我をする可能性が認められれば足り、「被害者の主張するような障害が生じるほどの事故」である必要はありません。

   それ以前の問題として、高裁判決はこれが因果関係の問題であるという認識をほとんど持っていないようにも見受けられます。高裁判決は、「被害者の主張するような障害が生じるほどの事故」ではなかったとして、この部分だけで結論を決めているように見えます。

   しかし、事故の程度としてはその傷病を生じさせる可能性が認められれば足ります。その可能性すら否定できるのはよほど特殊な事情が必要であると思います。

従って、因果関係を検討する場合には、現実に被害者に生じている後遺障害の有無・程度を確定して、事故以外の原因によりその結果が生じたと考えられるかとの検討が必要です。事故による衝撃が不明であっても現にその怪我をしていることが明らかであって、事故以外の原因が考えられなければ事故との因果関係が認められます。ルンバール事件最高裁判決はこの趣旨を述べています。

 

6 胸郭出口症候群の検討

 ⅰ 交通事故のあとに上肢の痛み、しびれ、脱力(及び握力の低下)を訴える事案は多く、この症状は頚椎の損傷に由来することもあれば、上肢の神経の損傷に由来することもあります。

   上肢の神経の損傷は、例えば衝突時にハンドルを握っていた手が牽引されたことによる一次的な損傷もあれば、頚部から肩部にかけての筋や軟部組織の損傷に由来する二次的なものであることもあります。

   衝突の衝撃が伝わると頚部は最大可動域まで一気に振られますが、人体が衝撃を感知して筋を緊張させ始めるのはこれより遅れます。頚部が急に大きく動かされると、多くの場合に頭部を支える各種の筋や軟部組織に炎症や断裂が生じます。むち打ち損傷と呼ばれるものです。痛みや張りは頚部から肩甲部・肩部にまで広く及びます。頚部の動きに関連する筋や軟部組織は広範囲に及ぶからです。

   このときに損傷を受けた筋や軟部組織が神経を圧迫することがあり、それが胸郭出口部などの狭い部位で持続的に生じると神経損傷に至ります。これが事故による胸郭出口症候群(二次性TOS)の発生原因です。アメリカでは胸郭出口症候群の大半が事故による二次性TOSであると報告されています。

   胸郭出口症候群はさまざまな要因から生じる症状の寄せ集め(症候群)ですが、基本的には上肢の痛み、しびれ、脱力が主たる症状です。医学的には胸郭出口症候群は両側に症状が出る事案が多いとされ、私の経験でもほとんどの方が両側に症状を訴えていました。

 

 ⅱ 本件では、事故後に被害者が主張していた症状は、胸郭出口症候群の主たる症状そのものですので、胸郭出口症候群との鑑別診断が必要となります。胸郭出口症候群の診断のためには、徒手テストのほか、血管造影、神経造影などの検査が行なわれることが多いのですが、本件では筋電図検査のみしか行なわれていません。

胸郭出口症候群であるとすれば、治療内容も変わってきます。第一肋骨切除術などの手術(あまり治療成績は良くないようですが)も検討対象になります。

 

7 「問題のある医学的知見」について

 ⅰ ほぼ全ての傷病について、加害者側が被害者の症状や医師の診断を根底から否定する医学意見書を出すことは多く見られます。しかし、主治医の診断ミス(医療過誤)や被害者の詐病は少数に過ぎないと考えられます。

また、訴訟では対立する鑑定や医学意見が根本から異なる内容を述べていることは少なくありません。双方が誠実に意見を述べたのであれば、ほとんどの事案で似通った意見になるはずです。この場合、一方の医学意見は意図的に誤った内容を述べていると考えるのが自然であると思います。訴訟においては、「問題のある医学的知見」が多く見られます。

 

 ⅱ 「問題のある医学的知見」に対しては合理的な疑問を述べることができますが、その多くは絶対に誤りであると断定することは困難です。

医学は自然科学の一部であって基本的に経験主義により記述され、医学書には経験により確認できる事実が記載されています。経験により確認できた事実からは、経験により確認できないことが誤りであると断言することはできません。

「問題のある医学的知見」の大半は何らかの前提からの強引な推論であり、その推論には医学的に明確な根拠はありません。しかし、それが誤りであると断定することは困難です。いまだ確認されていない推論の当否を断言することはできないからです。

   「問題のある医学的知見」の特徴は、過度の断定にあります。それは全称命題(全てのPはQである)によることが通常です。しかし、医学では全称命題が述べられることはまずありません。経験により確認できないことの断言になるからです。

 

8 筋萎縮必須論

 ⅰ 高裁判決と地裁判決

   高裁判決は、被害者の主張する症状が生じていたのであれば、「右腕に筋萎縮が発生するはずであるのに、いずれの医療機関においても筋萎縮の診断がされた形跡は見当たらない。」(31頁)と述べます。

   地裁判決は「腕神経叢損傷により運動まひが出現した場合、筋肉が顕著に萎縮するため、腕の周径が減少するはずであるが、原告の前腕及び上腕は平成19年4月頃において、健側と患側で周径差が認められない。」(35頁)との加害者側の主張を引用します。

なお、地裁判決は以下に述べる「問題のある医学的知見」も全て引用してそれを退けています。この地裁判決は非常に優れていると思います。   

 

 ⅱ 過剰な断定(全称命題)

   筋萎縮必須論とは、「Aの場合は必ず筋萎縮が発生する」との全称命題です。本件ではAに腕神経叢損傷が代入されています。事案によりCRPS、頚髄損傷、頚部神経根障害などの病名(被害者が診断された病名)が代入されます。

筋萎縮必須論は「問題のある医学的知見」の定番中の定番で、医学意見でこれが述べられると、多くの裁判官が入れ食い状態で信じています。ことに権威のある方の名義の医学意見書や鑑定書で筋萎縮必須論が述べられると、より信じやすくなるようです。

   しかし、腕神経叢損傷に筋萎縮は必須ではありません。一部に筋萎縮が生じる場合があるに過ぎません。それ以前にこの種の過剰な断定は疑って検討した方が良いと思います。

 

 ⅲ 筋電図検査のしくみ

   筋電図検査のしくみからは、筋萎縮必須論が疑わしいことは容易に言えます。ある神経が傷害されて筋組織への支配を失うと、近傍の神経が手分けしてこれを補います(側芽形成)。この結果、近傍の神経は支配下に置く筋組織が増えるので、運動単位電位のサイズが大きくなり、これが振幅に反映されます(サイズの原理)。このため筋電図検査では運動単位電位が測定の対象となります。

   運動単位電位の振幅が通常より20%以上大きい場合には、異常値として神経損傷が疑われます。私の担当した事件では50%以上増加していた方も何名か居られました。しかし、三角筋の一部に筋萎縮が確認された方がいたのみで、上肢全体に筋萎縮を生じていた方はいませんでした。

相当程度に神経が障害されても、近傍の神経がそれを補っている場合には筋に対する神経の支配は続くので筋萎縮は生じません。もちろん神経損傷の状況(怪我の仕方)によっては筋萎縮が生じることもあります。

 

 ⅳ 主治医の疑問

   本件では、主治医の1人が、被害者に筋萎縮がないことは腕神経叢損傷の所見と整合しないとの意見を書面(診療情報提供書)に記載した(29頁)と指摘して、高裁判決はこれを重視します。但し、この医師も「右腕神経叢損傷」と診断しているので、医師の言い回しは高裁判決の解釈とは微妙な差があるかもしれません。

この種の記載は他の裁判例でもしばしば見られます。診療情報提供書には自分ではうまく行かなかった患者への恨み節が記載される傾向があり、患者を責める内容が記載されることが少なくないようです。

患者の詐病を疑っていない場合でも、何らかの別原因を疑うなどして、「この部分は少し疑問だ」との意見を付することもしばしば見られます。

また、被害者の症状について損保の担当者から問い質されたことが書かれることもあるようです。被害者の通院が長期化するなどして損保の担当者が医師に事情を聞きに行くことはよくあります。そのときに損保の担当者から「これだけの症状を訴えているならば、筋萎縮が出ているはずだ。腕の周囲の測定はしたのか。早々に症状固定としないのはなぜか。」との言い方をされると、主治医はそれに対応した行動を取ることとなりやすいと言えます。

 

 ⅴ 筋萎縮必須論の二重構造

腕神経叢損傷の患者さんの一部に筋萎縮が生じるとしても、全ての患者に生じる必要はありません。この種の全称命題はそれ自体が怪しいといえます。ところが、裁判例の中にはこのことを理解したうえで、なおも筋萎縮必須論を信じてしまったものも少なくありません。それは筋萎縮必須論が次のような多重性のあるロジックで述べられることに因ります。

即ち、「仮に腕神経叢損傷の全てに筋萎縮が必須ではないとしても、この患者の訴える症状は相当程度に重く、そうであればこの患者に関しては必ず筋萎縮が見られなければならない。」との二重構造です。

要するに「一般的には必須ではないが、この場合には必須である。」との二重基準の導入で、どうにも都合がよすぎると思います。しかし、この理屈が怪しいとは言えても即座に否定することはできません。

地裁判決は筋萎縮必須論を「腕神経叢損傷により運動まひが出現した場合、筋肉が顕著に萎縮するため、腕の周径が減少するはずである。」と引用し、高裁判決は被害者の症状を引用した筋萎縮必須論を述べます(31頁)。

筋萎縮必須論は、「Aの場合は必ず筋萎縮が発生する」との全称命題が用いられますが、実はAに代入されるのは、「~であるほどの疾患R」という形でできるだけその被害者の症状に近い状況をAに代入します。そこが巧妙なところです。

例えば、CRPSにおいては、「常時右上肢に強い痛みが生じていて、大幅な可動域制限が生じているほど状況がCRPSにより続いていたならば、必ず顕著な筋萎縮が生じているはずだ」という形で、被害者の症状そのものを詳細に引用してAに代入します。

このように言われると、その気がしてきます。権威のある医師の名義の意見書や鑑定書でこの言い方をされると、信じない方がおかしいともいえそうです。

本件類似の事案で、「被害者の主張するように右腕神経叢損傷が生じていて、右上肢に痛み、しびれ、脱力が生じ、右手の握力が大幅に低下し、右上肢の動きにまひが見られる状況が本件事故時から長期間続いていたのであれば、顕著な筋萎縮が必ず見られるはずである。被害者に筋萎縮が生じていないことは医学的には説明困難な出来事であって、私の長年の経験でもこのような患者に遭遇したことはない。」などと権威のある医師の名義の意見書に記載されていたとしたら、ほとんどの裁判官が信じてしまうと思います。むしろ、本件の地裁判決はよく筋萎縮必須論に対して持ちこたえられたなあと思います。

 

 ⅵ 隠された二重構造

二重構造の筋萎縮必須論はもはや法則的な言明ではなく、「この患者はこうあるべきだ」という個人的感想に過ぎません。単なる個人的感想を強く断言してしまうと、その意見の信用性は低くなります。

そこで筋萎縮必須論では傷病名を強調しつつ、一方ではその傷病名とセットのものとして症状を強調するという形で二重構造が分かりにくくなるようにあいまいに述べられます。

即ち、あたかも疾患Rにおいては症状E~G(被害者の訴える症状)が必ず随伴するかのように述べて、「疾患Rにより症状E,症状F、症状Gを発症しているのであれば、必ず筋萎縮が生じるはずである」との言い回しをします。

このため、高裁判決は、筋萎縮必須論の二重構造が読み取れる言い回しをしている部分(31頁左列上)がある一方で、「上腕及び前腕に周径差がないという所見にも関わらず右腕神経叢損傷と診断できるような内容を見出し難い」(31頁左列下)として、腕神経叢損傷であれば常に筋萎縮が生じるかのような言い方もしています。高裁判決は筋萎縮必須論の二重構造に気がついていないようです。

 

 ⅵ 神経損傷の程度と症状の程度の相関性について

本件の筋萎縮必須論は、「神経損傷が重度になればなるほど患者の症状は重くなる」という理屈を前提としますが、その理屈は成り立ちません。神経損傷の度合いと症状の度合いに強い相関はありません。実際にも、例えばCRPSはきっかけとなる出来事(傷害)と不釣合いな症状が生じる点に特徴があるとされています。

また、神経障害性疼痛を発生させるエファプスや異所性発火は脱髄変性により生じます。脱髄変性(神経のチューブをとりまく殻の部分の損傷)は軸索変性(神経のチューブの損傷)よりも神経損傷の度合いは低いものです。従って、症状が強いほど神経損傷の度合いが大きいという理屈は成り立ちません。

なお、異所性発火とは神経のチューブをとりまく殻の部分が損傷を受け(脱髄変性)、むき出しになった神経が興奮しやすくなって生じる現象で、エファプスとはむき出しになった神経から漏れ出た電流が近傍の神経を興奮させることにより生じる現象です。

 

9 握力不変論

 ⅰ 高裁判決は、通院先で計測された被害者の握力の数値を多く引用し(27頁、29頁など)、「上下変動の経過が不自然である上、平成18年7月20日には、痛めていたはずの右が18kgに対して左が10kgとなっているなど、握力検査の結果の信用性には大いに疑問が感じられる。」(31頁)と述べます。これは被害者の詐病ないし症状の誇張を認定したものと言えます。

   これに対して、地裁判決は同趣旨の加害者側の主張を引用する(35頁)ものの、医師がその結果を踏まえて腕神経叢損傷と診断している(41頁)として退けます。正しい判断です。引用された数値の変動は担当医が当然に目にしていますが、その医師が何ら疑問を感じていないことをことさらに疑いの目で取り上げる方がおかしいと言えます。

 

 ⅱ 握力不変論と言うべきこの主張は、「問題のある医学的知見」としてよく見られるものです。

実際にはほぼ全ての患者で握力の大幅な変動が見られるようであり、変動があることをもって詐病や症状の誇張を疑う医師はいないようです。一方で、加害者側は「本当に傷病が存在したならば、その変動はあり得ない」との主張をしてくることが通常です。

 

10 筋電図検査否定論

 ⅰ 被害者の受けた筋電図検査について、高裁判決は、遠位筋ほど多相性の神経原性電位を認めるとして、右腕神経叢損傷(全型節後損傷)と診断された(31頁)と述べますが、それ以上の詳細は不明です。

   上記の「神経原性電位」は「運動単位電位」(筋電図検査での測定対象の一般的な名称)を意味すると考えられます。従って、運動単位電位の多相性の増加から、全型の(C6からTh1までの全ての神経に及ぶ)損傷が節後で(中枢側でなく末梢側で)生じているとの趣旨と理解できます。これは障害を裏付ける顕著な結果です。

 

 ⅱ 高裁判決は、「筋電図検査は検者によって解釈が分かれることがあるとされ、上記検査結果については、神経原性電位が明らかなのは橈側手根屈筋のみで、腕神経叢損傷と診断するには十分ではないというA医師及びB医師の意見も出されており」(31頁)として検査結果を否定します。

   しかし、「筋電図検査は検者によって解釈が分かれることがある」との一般論で顕著な検査結果を否定することは穏当ではありません。

   例えば、「レントゲン検査では検者によって骨折の有無の判断が分かれることがある」との一般論で顕著な検査結果(例えば粉砕骨折)を否定することはできないと思います。

なお、上記のとおり「神経原性電位」は「運動単位電位」を意味すると思われるのですが、そうだとすると医学意見の述べる「神経原性電位が明らかではない」との状況は意味不明です(多相性が明らかでないと言うならば別ですが)。高裁判決はこの言葉を「神経の損傷に関連する電位が明らかでない」との意味に誤解しているように見えます。つまり、神経そのものから電位が発生するとの誤解しているように見えます。もしかすると医学意見書も同様の誤解から述べているのでしょうか。

 

ⅲ 「問題のある医学的知見」においては、電気生理学検査(筋電図検査、神経伝導速度検査)の価値そのものを否定する主張や読み取り方を誤っているとの主張をすることは多く見られます。末梢神経の損傷はレントゲンやMRIで識別することは困難であるため、それを検知できる電気生理学検査は加害者側からの攻撃の対象とされます。

  筋電図検査は医学的に確立した検査手法ですので、その基本部分で「検者によって解釈が分かれることがある」とすることは、穏当ではないと思います。検査対象である運動単位電位は人の意思で左右できないので、被検者がこれをごまかすことは不可能です。

  また、普段からこの検査結果を治療や診断に用いている医師が、その読み取り方を根本的な部分で誤っているという主張は、非常に特異です。全型の腕神経損傷との現場の診断を、ごく一部の神経損傷とすることは、現場の医師が意図的でなければありえないほどの根本的な読み取りミスをしたことを意味します。このような穏当ではない主張を認めるためには、「その主張をしている医学意見書が複数出ている」と述べるのみでは足りないと思います。

 

11 最初が最大論

 ⅰ 地裁判決は「腕神経叢を損傷すると、末梢神経内の神経の伝導機能が低下し、受傷と同時ないしは受傷後48時間内には症状が出現する」(35頁)との加害者側の医学意見を引用します。

   受傷直後に最大の症状が出てその後は症状が改善するのみであり、事故後に悪化することはあり得ないとの主張(最初が最大論)は、「問題のある医学的知見」の定番中の定番で、ほぼ全ての傷病で登場します。

   しかし、この主張は一般人の常識に反します。事故後に一定期間(2週間から1か月)をおいてから症状が出たり、1か月以上経過してから症状が悪化して新たな症状がさらに出現したり、その後も悪化し続けたなどの事案は少なくありません。症状の一進一退もよく見られます。これまで検討した裁判例はほぼ全てがそのいずれかに該当します。従って、「最初が最大論」そのものが成り立たないと言えます。

 

 ⅱ そこで、「最初が最大論」はこれを緩和する条件とセットで主張されることが多く見られます(むしろ、こちらが通常かも知れません)。例えば、事故から2週間後までに全ての症状が出るとか、1か月後や2か月後や半年後までに全て出るなどの主張とセットになります。要するに被害者の症状の悪化が始まる前に最大の症状が出るはずであると主張します。

   本件では被害者は事故当日から重い症状が出ていてそのまま入院しています。一方で被害者は事故直後には加害者と会話をして携帯電話で事故の連絡をしたという事情があったようです。

   そこで本件での「最初が最大論」は事故直後に全ての症状が完全に生じることを強調して、事故直後の会話や携帯電話の使用はおかしいと述べ、セット期間として遅くとも48時間以内に全ての症状が出るとの主張になったようです。

 

 ⅲ なお、本件では事故により神経を損傷したとの前提ですので、セットの期間が短くなることに合理性が生まれる余地もありそうです。しかし、事故により神経損傷を生じる事案であっても、多くの場合、神経損傷は事故直後に生じるわけではありません。

また、神経損傷は直ちに最大の症状を生じさせるわけではありません。実際にも、これまで検討した裁判例では受傷直後に最大の症状を発症したものはありません。

このことは神経損傷に至るしくみからも裏付けられます。即ち、むち打ち損傷などで頚部から肩部の筋や軟部組織に炎症や断裂が生じて、それが神経を圧迫している場合、当初は張りや重みなどの症状として出現し、その神経圧迫が続いた結果神経に損傷が生じた結果、痛みやしびれとなります。このため2週間後や1か月後に症状が出始めたり、症状が重くなったりします。これが末梢神経の絞扼障害で多く見られる経過です。

   さらに、圧迫の持続により神経の損傷が拡大することもあり、加えて神経の損傷に起因する神経障害性疼痛の発症は痛みの増幅という面もあるため、すぐに全ての症状が出るわけでもありません。神経損傷からCRPSに移行する場合には症状の悪化は2、3年後にも続くことがあります。

   また、疼痛緩和の治療を止めてしまうと症状が悪化する場合もあり、このために労災ではCRPSについて3年間のアフターケア制度があり、更新可能とされています。

   このように、「神経損傷の場合には事故直後に全ての症状が生じる」との主張は、色々な面で事実に反しています。

 

12 反射テスト絶対論

 ⅰ 地裁判決は、上記の最初が最大論に続けて「原告は、本件事故翌日の深部反射テストにおいて、いずれも亢進ないし正常という、腕神経叢損傷患者としてはあり得ない結果が出ている」(35頁)との加害者側の主張を引用します。即ち、腕神経叢損傷が生じていたのであれば、事故翌日の深部反射テストは絶対に減弱になるはずであると主張しているようです。

 

 ⅱ しかし、徒手テストや反射テストに絶対的な価値を求める主張は、とんでもなく異常なものです。ことに反射テストは徒手テストに比べても感度が非常に低いテストです。

例えば、頚椎神経根障害での各筋の反射が減弱となるのは8%から21%に過ぎません(『マクギーの身体診断学・原著第2版』528頁)。即ち、その疾患に罹患している人の10%ほどしか病的反射を示しません。反射テストは検査としての価値が非常に低いことに特徴があります。この反射テストの結果をもって、「絶対にあり得ない」などの断言をすることは明らかな誤りであり、滑稽であるとさえ言えます。

   しかし、「問題のある医学的知見」においては、反射テストの結果に言及して「あり得ない結果である」と述べることは定番中の定番で、頚髄の不全損傷の事案ではほぼ全ての事案でこの主張が見られます。疾患を有していても病的反射を示さない患者がほとんどであるため、毎回のようにこの主張がなされています。

しかし、この主張を取り入れてしまった裁判例は多く見かけます。反射の生じる原理から詳細に説き起こして「私の経験ではこのようなことは絶対にあり得ない。」などの強い意見が述べられると、裁判所は入れ食い状態で信じているというのが現状です。

 

 ⅲ それ以前の問題として、そもそも本件で反射テストが行なわれたのは、中心性脊髄損傷が疑われたからであり、腕神経叢損傷の検査として行なわれたのではありません。反射テストは脊髄(頚髄)の損傷や神経根障害などが疑われる場合に行なわれます。

   従って、仮に反射テスト絶対論を述べるにしても、「反射テストの結果から中心性脊髄損傷は絶対にあり得ない。」との理屈が述べられるべきところです。ところが、本件では反射に言及して腕神経損傷は絶対にあり得ないと述べています。これでは反射テスト絶対論にすらなっていません。

 

13 「問題のある医学的知見」のセットについて

 ⅰ 訴訟では「問題のある医学的知見」は単独で用いられることは少なく、ほとんどの場合、複数の主張がセットで登場します。「問題のある医学的知見」がセットで用いられると、主張に厚みが出てきて信じられやすくなるという面があります。

   また、「問題のある医学的知見」のセットの中の個々の主張は、ほぼ全てが別の訴訟で裁判官がそれを信用したという実績のあるものであるため、判例集で探せば同じ主張を認めたものを見つけることができます。この場合には、その主張は信じられやすくなります(但し、ほぼ全ての主張はそれを認めなかった裁判例も探すことができます)。

   さらに、「問題のある医学的知見」のセットは医師名義の医学意見書や裁判所選任の鑑定人の鑑定書で述べられるため、一部に怪しい内容があると思われても、劇場効果により全体として信用されやすい基盤があります。

 

 ⅱ 一方で、「問題のある医学的知見」がセットで出てくると、いずれか1つが誤りであるとの反論はしやすくなります。

医学意見書については、たとえ一部であれ、明らかに誤った主張や過度の断定を含むものは、その全体を疑うべきであると思います。例えば、「我妻栄は刑法学者である」などの誤りを含む法律意見書は、法曹からはその全体が疑いの目で見られるでしょう。ところが、不案内な専門分野の意見書では、その一部であっても自信を持って「明らかな誤り」と断定することは困難です。

この場合でも「過度の断定をしている」との判断は可能です。医学では経験により確認できたことしか断定できないので、全称命題として強く肯定することや強く否定することは、経験により確認できないことを断言することになりやすく、それ自体が疑わしい主張と言えます。従って、一部であっても「過度の断定をしている」と判断できる医学意見書はその全体を疑うべきです。

   これに対して、損害の立証責任は被害者にあるとの感覚で、被害者側において「問題のある医学的知見」のセットの全てを論破するべきであると考えることは誤りです。主張と主張(論理と論理)が対立した場合には、「全体としてどちらが正しいのか」との視点で判断するべきであって、主張(論理)の当否にまで証明責任を持ち込むことは適切ではありません。